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「公爵は、運命の残虐な待遇をも、さういふ風に、平穏な、愉快な意味に
御翻訳遊ばして、悠然として御自適遊ばされますのを結構なことゝ存じまする。」

-- ウィリアム・シェークスピア、「お気に召すまゝ」(坪内逍遥訳)、第二幕、第一場

shakespeare

翻訳の品質管理 ー 言語と翻訳とは何か、概念及び感情を伝達する「変換措置」:

翻訳における品質管理につて述べる場合、「翻訳」の明瞭な定義から出発しなくてはならないでしょう。翻訳とは、特定の言語的・文化的環境または専門分野の文章(書記言語・文字言語)を、別の言語的・文化的環境に入れ換える一種の「変換装置」に喩えることができます。伝達の媒介が音声言語(口頭言語)の場合、通訳が同等の使命を果たします。言語とは、音声、または文字で表現した、即ち記号によるコミュニケーション(人間相互の思考的・情緒的な情報の伝達、以下「伝達」)の形態です。言語は要するに、人間から人間へ、各種の思考と感情を伝える二重用途の道具です。この、概念と感情の二元的関係は、我々人間の主観的な世界にも存在する同様の二元的状態を反映します。幼児から成長していくうちに、人間は外部世界に接触し、その認知的模型(「図式」)を脳の中で作り上げます。この認知的模型・図式を使い、客観世界と干渉し合い、衣食住等各生存条件を満足させる動機に導かれながら生き残っていきます。しかし、客観世界に対する我々の認知図式と違い、これらの生存条件とその諸動機は、経験で学んで取得するものではありません。個人の気質は、児童期から成人早期にかけて外部環境に影響されることは殆ど全ての科学者が同意するところですが、人間独特の感情、情動、動機などが、自然淘汰により種としての人類に織り込まれています。生存、交遊、家族、地位、富裕、その他人間の求める原始的な目標、あるいは個人の気質が「意義ある」として求める目標を追求させる動機となり、情動、感覚、衝動の殆どがこれらの本能によって決定されるでしょう。それらの目標を求める手段を提供するのは、この概念的模型・図式です。社会的な動物の人類は、情報を相互に伝達する場合、概念も感情も表現します。

単なる言葉ではなく、認知図式に根ざした概念関係を翻訳せよ:

ある言語の単語や表現は、その文化に特有の認知図式を構成する概念の絡み合いを象徴します。これは、翻訳者の谷田貝常夫氏が指摘した「文化常識」と基本的に同じことです。一部の概念・図式は、特定の文化に特有ではなく、人類共通の所有物として普遍的なものです。例えば、普遍的なものである客観世界の模型として、それぞれの科学分野の概念・図式も普遍的です。従って、科学的な概念・図式をより正確に象徴し、異文化相互に伝達させる記号を見つけるのは簡単です。ところが、その他の分野の概念・図式は、特定の社会の歴史や文化に深く根ざしている場合もあります。特定の社会の法律、商工及び経済慣行などは、その社会独自の文化や伝統に根ざしています。その結果、そういった概念・図式を正確に表現する語彙や、言い回しの一部を異文化の言語に見つけるのは不可能な場合が多いのです。従って、翻訳者の訳している文章の単語で象徴された概念・図式を把握するには、辞書だけでは補いきれません。仮にある辞書に特定の概念について合理的な定義や説明があったとしても、それらの概念・図式を正確に理解するには、「抽象化」という手段を使う必要があります。即ち、当該概念を象徴する単語が使われた数多くの事例を精密に検討することで、把握・理解するのです。原文言語の概念や図式を十分理解したうえ、次は訳文言語の読者へ伝達する作業に入りますが、今度は訳文の言語には当該概念・図式を正確に象徴する記号、つまり単語・表現が存在しないという問題に直面します。いや、存在するはずはないでしょう。その場合、翻訳者は工夫して、原文の文脈及び目的、執筆者の意向等に照らし、要点の重要な本質を窺って、先方の環境においてかかる本質を伝達するよう、自分の技能や経験を動員すべきなのです。

書記言語による伝達:

書記言語は、人間の相互伝達で特殊な位置を占めていると思います。人間には、言語以外の伝達形態があります。口頭言語では、音声の調子という媒介を加えることで、伝達の効率性を高めることができます。他人と直接話す際は、顔の表情や身振りなどで更に高めることができます。顔の表情も、その表情を読み取って理解する能力も、自然淘汰によって人間の本性に植え付けられてきたもので、全ての人間の普遍的な本能ですが、書記言語ではこのような伝達形態が失われてしまいます。一方で、人類の顔に表される多様な表情は、記号と見ることができます。各表情が記号であれば、各記号によって表されるのは当該人間の主観的な状態、情動、感覚、思考、気分の複雑な組み合わせです。こういった記号は自然淘汰で人間の本性に織り込まれたのですが、世界の諸民族が使う言語的記号は後天的に学んだものです。従って、特定の記号と、その記号が表す情動や、その他の主観的状態は、直接的にではなく間接的に伝達されます。怒りの表情、幸せの表情、皮肉や疑問の表情を見ると、本能ですから、世界中の全ての人間が直ぐに理解できます。誤解は不可能に近いです。犬などの動物にもかなり微妙な程度まで伝達されます。顔の表情では、記号(顔の表情)と、同表情が表す意味及び情緒の融合(主観的状況)との関係は直接です。しかし書記言語ではそうではなく、寧ろ記号と概念及び情緒との関係は間接的です。この間接的な関係により、記号と概念・情緒との対応が不適当となり、延いては誤解が発生する可能性があります。(無論、故意に他人を騙すため自分の意図や感情を装う行為が日常茶飯事ですから、顔の表情と主観状況との関係においても不適当な対応もあり得ますが、ここではその論議に触れる余地がないので省略します。)このように、記号を使えば、複雑な概念を伝達することができます。しかし、特定の記号(書記言語)が代表する概念との関係が正確でなければ、逆に誤解の可能性が発生します。翻訳者は、この事実を常に念頭に置かなければなりません。

解説的と劇的書記言語:

言語は概念を伝達するほど「解説的」で、情動などを伝達するほど「劇的」です。科学的な文献は専ら概念を伝達するために作成されたものですから、大体が解説的な文章で執筆されます。芸術的な文献は、主に情動、情緒を多かれ少なかれ感動させるために作成されたものですから、劇的な文章で執筆されます。ただし、解説的な文章と劇的な文章は必ずしも相互排他の関係ではありません。文書は普段、概念と感情の様々な融合を伝達するために作成されています。ビジネス、経済や法律文章もまた、決して概念のみを伝えるのではありません。法律の条文などは、その内容の重要性をも伝えようと、威厳のある文体で作成されています。近代の片仮名文語体、国連憲章、米国の独立宣言等の文体にも特殊な調子が織り込まれています。日銀など中央銀行の代表は、記者会見などで市場関係者を驚かせないよう、慎重な言い回しや調子で発言します。外交官の発言も同様です。翻訳者の責任には、概念と調子のいずれをも理解し、異文化の言語で原文と同様の結果や響きを再現させることも含まれています。

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